島根県雲南市に「もののけ姫」に登場するタタラ場のモデルとなった場所があると知り。
一路島根へ行った記録の続々編です。
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旅程
1日目:出雲縁結び空港〜鉄の歴史博物館〜山内生活伝承館〜菅谷たたら山内〜たたらのいえ〜たたらと刀剣館
2日目:美保神社〜美保関灯台〜古代鉄歌謡館〜須賀神社〜須賀神社 奥宮〜ホーランエンヤ伝承館〜松江城〜宍道湖
3日目:石見銀山 世界遺産センター〜龍源寺間歩〜石見銀山資料館〜羅漢寺 五百羅漢〜さんべ縄文の森ミュージアム〜三瓶自然館サヒメル〜出雲縁結び空港
たたらのいえ
奥出雲に入ると、本格的に雪だった。
この辺りは「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」という重要文化的景観に選定されている。
雪で辺り一面が白くなっていたけど、立派な桂(かつら)の木はすぐに分かった。
昼食のため立ち寄ったのは、江戸時代に松江藩の鉄師であった卜蔵(ぼくら)家の古民家を改築したカフェ「鈩の舎(たたらのいえ)」。
車を停めて降りると、庭の一角でヤギたちが、雪をものともしない様子でごはんを食べていた。
湧水コーヒーと仁多もちぜんざい
ここのお料理は、神話「ヤマタノオロチ」の舞台として知られる船通山(せんつうざん)の湧水を利用して作られているそうで。
湧水割子そばに奥出雲で採れた野菜の天麩羅を合わせたメニューや、仁田米を使ったごはんもの、あゆの塩焼きなどが出されていた。
1月だからか、仁多もちぜんざいをサービスしてくださる上、湧水コーヒー(無料!)もあり。
店内に複数置かれたヒーターや、やかんを乗せたストーブと合わせて、奥出雲高原トマト詰め放題なども店内を暖かく彩っていた。
中でも仁多もちぜんざいはとても美味しかった。
仁多米とは、ここ島根県仁多郡奥出雲町で生まれたお米。
ほとんどが昔ながらの棚田で作られているそうで。たたら製鉄と棚田には長く、深い繋がりがありました。
鉄穴流し(かんなながし)
たたら製鉄にとんでもない量の砂鉄が必要なことはこれまでにも書いた。
砂鉄は山や川、海から採れるらしい。
日本列島はニュージーランド、カナダと共に砂鉄の世界三大産地の一つだそう。
鉄の博物館で見た「和剛風土記」や展示資料でも、この砂鉄を集めているところと思われる映像や写真があった。
前回の菅谷たたら山内の高殿で、田部さんが詳しく教えてくださった。
中国山陰地方では砂鉄を「鉄穴流(かんなながし)」と呼ばれた方法によって採取していた。
大まかな流れは下記の通り。
- 砂鉄を含んだ山を切り崩し、岩石や土砂を集める
- 岩石や土砂(砂鉄が含まれている)を川や水路に流す
- 重い砂鉄は水路の底にたまり、軽い土砂は下流に流れていく
- たまった砂鉄を採る
この方法は、大量の土砂が川や水路に流れてくるので、農業を営んでいた人たちにとっては大問題。
結果、鉄穴流しは田んぼや畑が休む冬にのみ行われたそうです。
雪の降りしきる中、山を切り崩したり、水路から砂鉄を掬い上げる人々の映像は凄まじいものがありました。
田部さんによると、大体75,000トンの土砂から30,000トンの砂鉄が採れたとのこと。
45,000トンの土砂が、下流に流されたことになる!
ちなみにタタラ製鉄の一回の操業に必要な砂鉄は、14〜15トン。
菅谷たたらでは年間60〜70回の操業が行われていたらしい。
膨大な量の砂鉄を採るために、どれほどの土砂が切り崩されたことかは想像に難くない。
棚田の風景
しかし、そんな鉄穴流しの際でも、先人たちは鎮守の社や墓地などの大切な場所は削らなかった。
鉄穴流しが終わってから、そこは「鉄穴残丘(かんなざんきゅう)」と呼ばれる不思議な小山となり。
広大な鉄穴流しの跡地は、残された土砂や水路、ため池などを利用して、水田として再生された。
それが小山の点在する棚田の景観を作り。
奥出雲町は、先述の重要文化的景観だけでなく日本農業遺産や日本の棚田百選にも選ばれている。
そんな棚田で作られているのが、仁多米。
全国の米どころの中でも『西の横綱』と言われる美味しさのブランド米だそうです。
鉄師卜蔵家 金屋子神社
お店を出ると、ヤギたちはもう小屋の中に入っていた。
ミニヤギ・にわとりのいる牧場を併設している、とのことだった。
まだ雪も降り続いていたけど、水車を見に行くと。
桂の木のそばに金屋子神社があった。
“鉄師卜蔵家がたたら製鉄で巨万の富を得たように、皆様にも巨万の富が得られ幸福が訪れるように”と祈祷された御朱印もいただいたし、お参りもしたので今年の金運に期待しつつ。
たたらのいえを後にする。
奥出雲たたらと刀剣館
次にやってきたのは、仁多郡奥出雲町横田にある奥出雲たたらと刀剣館。
ヤマタノオロチをモチーフにしていると思われるモニュメントが出迎えてくれた。
ここでは、日本刀鍛錬の実演などもされているそうで。
前回書いた、天秤鞴や手押し式の吹差鞴(ふきさしふいご)など体験できるものがあったのも良かった。
実物大の炉と地下構造の断面模型もあった。
そう、実はたたら製鉄で一代ごとに築かれ壊される炉の下には「床釣(とこつり)」と呼ばれる地下構造があったのです。
それは、近世では深さ3mにも及び。
定期的な補修作業を施しながら、繰り返し使われました。
安定した高温操業を行うために必要なのは、防湿・保温の強化。
そのため床釣の底は、砕石・砂利・真砂土を順に敷き詰めた上に粘土の層を作って断熱。地面からの湿気も遮断。
木炭・灰を突き固めて作られる炉床(炉を設置する場所)は「本床(ほんどこ)」と呼ばれ、下の粘土層とともに炉への湿気を完全に遮断する。
本床の両側には「小舟(こぶね)」と呼ばれる空間があり、ここで断熱(炉の保温)と本床の湿気を逃がしていた。
経験をたよりにこのような複雑、かつ理にかなった地下構造をあみ出していた先人の智慧は驚くべきものです。
引用:「たたら」のしくみ – 「たたら」とは – 鉄の道文化圏
玉鋼と靖国たたら
たたら製鉄の火は、明治時代(1868~1911年)に西洋から安価な洋鉄が輸入されるようになり、日本でも洋式高炉による製鉄が本格化し、消えてしまう。
しかし、たたら製鉄でしか作れないものがあるのだという。
玉鋼(たまはがね)と言うそれは、たたらで得られた鉧(けら)から特に不純物の少ない良質の部分だけを取り出したもの。
そしてそれは、日本刀の原材料として欠くことのできないものでした。
昭和8年(1933)から昭和20年(1945)にかけて、日本刀鍛錬会が奥出雲町で「靖国たたら」として操業を復活させます。
しかし終戦後、玉鋼が生産されることはなく残存分も底をつき。
占領軍の没収などで途絶の危機に瀕していた日本刀を守り、後世に伝えることを目的として、昭和23年(1948)公益財団法人日本美術刀剣保存協会が設立されると。
昭和52年(1977)、旧「靖国鈩」は「日刀保たたら」として復活。
以来今日まで、日刀保たたらは唯一正当なたたら製鉄による玉鋼を日本刀の材料として生産、全国の刀匠に供給しているそうです。
玉造温泉へ
鉄は、人々の暮らしを豊かにした一方で、刀や大砲など戦争の武器にも使われてきた。
現在の日本刀は美術品として取り扱われているが、いつの時代も、人の手が作り出した道具をどのように使うかは、人の手に委ねられている。
砂鉄を採った山や土砂をどうするか。
跡に造られた棚田でお米を作り、木炭を作るために木を切った山には、また木を植えた。
宿泊先の玉造温泉の宿に到着すると、雪の中を着物姿の仲居さんが出迎えに来てくれた。
こちらの宿では、毎晩民謡ショーが開催されているそうで。
郷土民謡「安来節」や、出雲地方に古くから伝わるという「銭太鼓」。男踊り「どじょう掬い」は、子どもたちも楽しそうに見入っていた。
週末だけ、とかお客さんの多いシーズンだけではなく、本当に毎晩なんだろうか。
と俄に信じがたい気がしたけど、いつここに来ても地元の唄や踊りを楽しむことができるというのは、これ以上ないおもてなしだなと思った。
明日もまた見に来よう、と拍手を送り。
翌日の早起きに備えた。
次回へ続きます。