映画「もののけ姫」で、村の女性たちが”ひーとつ ふーたつは…”と歌を歌いながらタタラを踏むシーンがある。
深海合唱団でも2021年の国際女性デーに歌った「タタラ踏む女達〜エボシ タタラ歌」。
再度歌ってみたいと、改めて”たたら”について調べていたら。
島根県雲南市に「もののけ姫」に登場するタタラ場のモデルとなった場所があると知り。一路島根へ。
旅程
1日目:出雲縁結び空港〜鉄の歴史博物館〜山内生活伝承館〜菅谷たたら山内〜たたらのいえ〜たたらと刀剣館
2日目:美保神社〜美保関灯台〜古代鉄歌謡館〜須賀神社〜須賀神社 奥宮〜ホーランエンヤ伝承館〜松江城〜宍道湖
3日目:石見銀山 世界遺産センター〜龍源寺間歩〜石見銀山資料館〜羅漢寺 五百羅漢〜さんべ縄文の森ミュージアム〜三瓶自然館サヒメル〜出雲縁結び空港
1月中旬、機内からは富士山がきれいに見えていた。
島根も暖冬で、まだ雪はあまり積もっていないようだけど、時々雪の予報だった。
たたらとは
元々「たたら」は、製鉄の時に風を送る「鞴(ふいご)」を指す言葉で、漢字では「踏鞴」。
たたらで空気を送って鉄を作ることから、鉄を作る炉も「たたら」、鉄を作る建物(=高殿)も「たたら」、その工程全体も「たたら」と呼ばれるようになったとか。
踏鞴という漢字の他、鑪・鈩・蹈鞴・高殿など、多数の文字で表される「たたら」。
その語源は、中央アジアの民族タタール人が持っていた皮の袋が、ふいごに使われたから。インド地方の言語”タタール”(猛火の意味)から。など諸説あるとか。
「地団駄(じたんだ)を踏む」という言葉は、「地踏鞴(じたたら)を踏む」=踏み鞴(ふみふいご)を踏む、から来ているそうです!
鉄のルーツを探る旅へ
出雲縁結び空港から車で走ること40分程。
雲南市吉田町にある鉄の歴史博物館を訪ねます。
まずは「時間があったら…」と勧めてもらった映像を鑑賞。
昭和44年(1969年)にたたら操業を復元した際の貴重な記録だという『和剛風土記』。
想像もつかない量の砂鉄、運びこまれる大量の木炭。一操業ごとに築かれ壊される炉。
何度も繰り返される動作。灼熱。
たたら製鉄がいかに大変なことだったか。
博物館の建物は、旧吉田村の医師・常松邸が改造されたものらしい。
古民家の朝の寒さとヒーターの暖かさを交互に感じながら、とてつもない数字や工程に耳を疑って、席を立った。
日本古来の鉄づくり「たたら製鉄」
日本に鉄が伝来したのは、遅くとも弥生時代。それまでは石や木の道具を使っていたと考えられている。
大陸から鉄をつくる技術が伝えられると、各地で鉄づくりが発達。
吉田町には良い砂鉄があり、木炭にする木もたくさんあったので、鉄づくりに適した土地として非常に盛んに鉄づくりが行われました。
砂鉄と木炭を使った独特の鉄づくり…この方法を「たたら製鉄」といいます。
引用:たたら製鉄の歴史や技術・人々が使っていた道具の展示 | 鉄の歴史村
室町時代までは「野だたら」と言って、山の斜面に炉を築き、自然の風を利用していたそう。
雨が降っても濡れないように、「高殿(たかどの)」という建物を作って、その中で鉄を作るようになったのは江戸時代のこと。
一代(ひとよ)燃え盛る火
たたら製鉄の一回の作業は、「一代」(ひとよ)と呼ばれる。
ここで紹介するのは、大きく2つある方式のうち、主に出雲地方で行われた「鉧(けら)押し法」。
- まる一日かけて炉を作る
- 木炭を入れ、ふいごで風を送り、火をおこす
- 砂鉄を入れる
- <砂鉄を入れる→木炭を入れる→砂鉄を入れる>を三昼夜くり返す
- 炉を壊す
- 鉧(けら)を取り出す
取り出された鉧は、数人がかりで引っ張り出し、鉄池(かないけ)に放り込んで冷却する。
その後、銅場(どうば)と呼ばれる場所で粉砕。
質により玉鋼(たまはがね)、目白(めじろ)、造粉(つくりこ)、歩鉧(ぶけら)などに分別される。
というのが大まかな流れ。
たたら製鉄に従事した人たち
映像と展示資料を見学したあと、2号館へ移動するため外へ出ると雪が!
傘を貸してもらって、お庭を通り、2号館の蔵へ。
2号館は、鉄山経営と鍛治集団についての展示。
たたら製鉄を営むためには、膨大な量の木炭や砂鉄の調達が不可欠。
そのため広大な山を保有・管理していた「鉄師」と呼ばれる人たちが、鉄山経営を行なっていた。
鉄師御三家の一つが、室町時代にたたら製鉄を始め、日本一の山林王として知られるほどたくさんの山を持っていたという田部(たなべ)家。
田部家のような有力な鉄師の居宅や高殿を中心に、街は栄えた。
たたら製鉄に従事する人たち、鋼造り、大鍛冶や小鍛冶。馬・人・船による流通を担う人々。
鉄が様々に姿を変えていくのに、多くの人々の手を経る。そこに雇用が生まれ、地域の経済にも大きな影響力があったことが窺えます。
ちなみに、こちらは展示されていた蓄音機。
中央に”君が代”と書かれているが、これで君が代が流れるのか、君が代以外を聴くことはできるのか(できるよね)が気になるところ。
たたら製鉄が隆盛だった頃は、鉄を運ぶための船も所有していたそうで。
「鐵泉丸」という名前の千石舟だったとのこと。
ちなみに千石舟とは船種や船型の名称ではなく、お米千石が積める〈もみ米1000石(約150t)を積載できる船〉という意味からできた俗称。
正式な名称は、ベザイ船(せん)(縁起をかついで弁財(才)船の字をあてることが多い)で、これが江戸時代の日本の商船のほとんど全てを占めていたそうです。
たたら師たちが苦労して作り上げた鉄は、刀や大砲など武士たちの戦争の道具にも使われましたが、何よりも庶民の生活を向上させ豊かにするための材料として、欠かせないものでした。
家を建てるにも、橋を造るにも、鉄の道具・材料は大きな役割を果し、金や銀よりも大切にされていたといわれます。
このようにして、鉄は農業を中心とした日本の産業や文化の発展に大きく貢献してきたのです。
引用:たたら製鉄の歴史や技術・人々が使っていた道具の展示 | 鉄の歴史村
木を切ったら、木を植える。
鉄の歴史博物館から、地図上では6分となっているけど、雪が降る峠道。
安全運転で、菅谷たたら山内にある生活伝承館を目指していると。
道路を横切るサル!と思いきや、横の田んぼにサルの集団が。
(分かりづらいですがたぶん5匹くらいは映っています、ほんとはもっといた)
たたら製鉄で必要な砂鉄も木炭も、木を切り、山を削り。大地を切り崩さなくてはならない。
映画「もののけ姫」にもこんなセリフがあった。村の男が言う。
“おれたちの稼業は山を削るし木を切るからな。山の主が怒ってな”と。
鉄の歴史博物館の資料室では、こんなことを言っている映像もあった。以下は要約。
“欧米の鉱山などは、資源を採り尽くしたら終わり。次の鉱山を探して、また採り尽くす。その繰り返し。
日本のように、採ったあとに木を植えたり、田んぼにしたりしていれば、豊かな環境を残せたのではないか…”
山内(さんない)の人々
「山内(さんない)」とは、たたら製鉄が行われた施設とそこで働く人々の居住区が一体的に配置されていた集落の総称。
ここ菅谷たたら山内は、先述の田部家における中心的なたたらで、大正10年(1921)までの130年間稼働。
昭和42年(1967年)には、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
生活伝承館では、山内の人々が使っていた道具類が展示されていました。
人々の暮らしぶりが描かれたパネルによると
- 炭焼き山の位を見分ける見立て
- 炭を運ぶ道を打つ共同作業道打ち
- 誰かが風邪や病気になると、みんなが餅を持っていった
- 死期の迫った人の名を大声で呼んだおかよび
- 冠婚葬祭は全員が手伝って行なった
など、さまざまな行事・決まり事があったようで。
他にも、悪いことをした人にどうするか。前借りするときのルールなど。
中でも気になったのが、死期の迫った人の名を大声で呼んだという「おかよび」。
パネルには、死期の迫った人の家らしき屋根に4人の男が登っていて、屋内に向かって(屋根に穴が開いている?)大声を出している様子が描かれていました。
たたら操業は、決して一人の仕事では成り立たない。自然との共生も欠かせない。
多くの人がそれぞれの役割を担い、協力し合うことで成り立つように。山内の人々は、互いに助け合って暮らしていた。
明治時代(1868~1911)に西洋から安価な洋鉄が輸入されるようになり、日本でも洋式高炉による製鉄が本格化するようになった。
たたら製鉄は次第に衰退していく。
外に出ると、雪が止んでいた。
日本で唯一現存する高殿「菅谷高殿」の大きな屋根が、見えてきた。
次回につづきます。