北方民族博物館に行きたいし、流氷を見に行こう!ということで、一路網走へ。

当初2月中旬ごろの旅を予定していたのですが、大雪予報が出て、急遽リスケしました。

知床出身のメンバーくみさんに、現地を知る人からのご意見や情報をもらえたので、とても心強かったです(冬の北海道行きは、飛行機の遅れなどがあるので、前後の日程に余裕がある方が良いとのこと)。
地元の人の情報に勝るものなし、ですね。

旅程

1日目:女満別空港〜北方民族博物館〜天都山〜オホーツク流氷館〜道の駅 流氷街道網走〜網走市立郷土博物館分館 モヨロ貝塚館〜珈琲屋 デリカップ

2日目:網走監獄〜JR北浜駅〜濤沸湖〜流氷船おーろら〜女満別空港

オホーツク文化に魅せられて、モヨロ貝塚を目指す

2021年の秋に、横浜のユーラシア文化館で開催されていた特別展「オホーツク文化ーあなたの知らない古代ー」に行ったことがきっかけ。

横浜ユーラシア文化館 オホーツク文化ーあなたの知らない古代ー

オホーツク文化とは、サハリン南部から北海道の東北部、千鳥列島にかけて、5世紀から9世紀頃に広がった古代文化。
北海道北見市のトコロチャシ遺跡から発掘されたクマの動物像の、なんとも言えない、言うならば朴訥とした可愛らしさにも心惹かれ。

いろいろ調べていたら、北方民族博物館・モヨロ貝塚館など網走に気になる場所がたくさんあった。

ちょうど流氷も見られるかもしれない!と流氷船も予約して。

白銀の街をバスが行く

当日の天気は、晴れ。女満別空港からは乗り降り自由!あばしりフリーパスを利用してのバス移動。
窓の外は一面が雪景色。バスに乗っていても眩しくて、何度も目を細めながら。

北海道立北方民族博物館 令和3年度企画展 ウイルタのモノとコトバ:サハリン先住民のコスモロジー

北方民族博物館では企画展「ウイルタのモノとコトバ:サハリン先住民のコスモロジー」が開催中。

リスケしたおかげで、解説講座も聴講できることになりました。
朝10時からの解説講座にはギリギリ遅刻して到着。

飼トナカイと共に生活する人

ウイルタは、サハリン樺太の東岸を主な居住域とする少数民族。
アイヌの人々からはOrokko (オロッコ) と呼ばれたそうです。

今回の展示では、サハリン先住民であるウイルタの人々の民族資料(モノ)とウイルタ語(コトバ)との結びつきから、その生活や文化を紹介するというもの。

展示されている物にはすべてウイルタ語の名称が付けてありました。

例えば、ウイルタ語で帽子はaapu(アープ)。トナカイの頭の毛皮で作られた防寒帽はmeetakaa(メータカー)。

ふたまた手袋はmambakka(マンバッカ)で、5本指の手袋はkotooputu(コトープトゥ)など。

日本語のように、ふたまたの”手袋”と5本指の”手袋”ではなく、それぞれに”マンバッカ”、”コトープトゥ”と名前が付いています。
こういったことから、極寒の地で暮らすウイルタの人々にとって、手袋や帽子などはとても重要なモノだったということが分かります。

いろんなトナカイに名前がある

中でもたくさん名前があるのは「トナカイ」。性別はもちろん、トナカイの年齢などによって細分化されて、そのそれぞれに名前が付けられていました。

そもそもウイルタの人々の自称「ウィルタ」「ウリタ」の語源はula(ウィルタ語で「飼いならしたトナカイ」の意)。
ウリタは「トナカイ保有者」「飼トナカイと共に生活する人」をあらわすそう。

トナカイ(イメージ画像)

アイヌの人々が呼んでいた他称となる「オロッコ」の起源も、満洲・ツングース語のoro(家畜としてのトナカイ)によると考えられ、やはり「トナカイの民」「トナカイ飼養者」の意味だろうと推測されるとのこと。

衣食住のすべてとそれ以上に、トナカイが密接に関わり、なくてはならない存在だったのでしょう。

時間と空間を超えてきた資料が、北の文化を話はじめる

ちなみに、解説講座でお話をしてくれたのは山田祥子(よしこ)さんという学芸員の方。
話者が少なく消滅が危ぶまれるウイルタ語の採録などもされているようで、研究資料等はウェブ上でも多数閲覧できます。

とても貴重な機会となった聴講を終えてから、ようやく企画展を見学。
音声資料・映像資料などもたくさんあり、常設展も充実の内容でした。

こちらは、ミュージアムショップにあったステッカー。
他にも少数民族の人たちの伝統工芸が体験できる手作りキットなどが販売されていて、とても気になったけど、手芸はできそうにないので断念しました。

オホーツク文化とは

オホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化。
この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから、オホーツク文化と呼ばれるようになったそうです。

当時は技術的に、この地域でお米は作れず、北海道北部と樺太では漁業、北海道東部では海獣を対象とした狩猟(道東は流氷の影響を受けるので、冬の漁業に適していなかった)など海に依存して暮らしていたとのこと。

その自然環境などが生んだ、本州の古代文化とも、同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とも異なる文化。
自然を崇め、自然と共に。厳しい自然のなかで生き抜くため。集落を、家族を守るため。

天都山

博物館を出ると、また雪が眩しい。
真っ白な雪が積み上げられた道を、目を細めながら天都山まで歩くと、山頂から海が見えた。

もう流氷はとっくに来ているよ、と冷たい海風が教えてくれているようだった。